旅してトボトボ

monpeiが過ぎ去っていく日々をなんとかとどめるための録

悲しい人

実は最近、センター試験を受ける受験生の家庭教師をしている。

科目は倫理。

そのため、かなりの時間がその準備に割かれる。

もちろん、卒論もやらなきゃいけないわけだから、てんやわんやだ。

特に昨日はかなりの範囲をやったので、準備も授業そのものも大変だった。

が、これがなかなか勉強になる。卒論に使えそうなこともあったりして。

ところで、

新しい概念を説明するときには、他の言葉をつくして説明しなければならない。
つまり、噛み砕いて説明しなければならないのだが、これがまた大変だ。

老荘思想のなかにでてくる、「道」という考え方がある。

彼らは万物の根源には「道」があるとし、それは見ることも感じることもできないと言った。

そして、私たちは「道」によってできた自然に素直に従って生きよ、と説いた。

じゃあ「道」ってなんなの?

・・・・う〜ん・・・見れないし、感じれないし、言葉にすることもできない・・・こんなもんをどうやって説明しろというのか。

学問とは抽象化の作業だと思う。

いろんな事柄の人間に認識できる部分の、さらに皆で共有できる部分をひたすら言葉に下ろしていく作業なのだ。

(実物を想像してください)
{青森産りんご一つ}と{岩手産りんご一つ}合わせると{青森産りんご}{岩手産りんご}
数だけで(抽象化して)考えると・・・

   1   +   1     =      2

この作業にはいろいろな決まりがある。
*どこでできたりんごでもりんごと認識されるもの一つを1と置く
*経験的、もしくは論理的に、1と1を合わせると2である
*場所や時間は「今(現在の)」「この場所(この宇宙)」に限る
等々・・・

が、哲学ではそのルールを無視して「『1』って何?」って聞いちゃったわけだ。

それに答ようとすると・・・

学くん「1はりんご一個のことだよ」
哲くん「でも、そのりんご、実は中にりんごが2個入ってるかもよ。そしたら1+1=4だね」
学くん「・・・」

となる。

みんなで一緒にわかるようなこと(見えてるりんご)だけを扱ってるのに、見えてない部分まで引き合いに出しちゃうわけ。

でもそれが科学を発展させてきたと思うんだけどね。

木の上からりんごがおちる←なんで?

ってね。当たり前と思われてること、もうそれ以上説明しようがない思われてることをもっとよく考える(哲学する)ことで学問は進められてきた。


とにかく、

哲学は共有できない、認識できない部分も「何それ?」って聞いちゃう。

だから、伝えるということには限界がある。あとは自分で考えて納得してもらわないと。

しかし、評価するにも共有するにも抽象化しないといけないわけだから、そこに哲学をテストにすることの限界がある。

「道」とは全ての事物の根源(原子)でありかつルール(物理法則)のもとでもある。

これが近代科学的世界観の答え。

でも、老子さん荘子さんが聞いたら怒るだろな。

「原子も物理法則も相対的なものでしかない!」「道とはもっと根源的で絶対的なものである!」ってね。

まぁ、実際に他の宇宙では1+1は2にならないかもしれないし、相対性理論なんてもんもある。

全ては相対的で絶対的なもの「道」は認識できない。

だから、「道」は言葉にできない。

から、テストなんかにすなーー!!!

答えがないテストなんて苦しいだけやん。評価もできんし。


それでも哲学者はわからない事をわかろうとする。

だから必ず苦しむ。苦しむようにできている。

なんて悲しい生き物なんでしょうw・・・orz

広告を非表示にする