旅してトボトボ

思いついたらなんか書く

気づけば・・・

23歳!!

23歳!!!

大事なことなので(以下略

だいたいひっそりと誕生日を迎えます。

年末だしね。それとも日ごろの行いのせいか・・・


さて、昨日のお話の続き。

「する」のと「させられる」のはえらい違うって話ね。

現代は自主性が重視される時代。。

人間から命令されることは少なくなったけど、他のもんから命令されることが多くなった。

「他のもん」ってのも人間がつくったもんだから、実はやっぱり人間に命令されてるのかもしれんけどね。

でも、その人間も資本主義の中で「人間に命令するものをつくれ!」って命令されてるのかも。

だとしたら僕らはそもそもシステムに命令されていることになる。

例えば、僕らはパソコンに「使われて」いて、パソコンはどっかの会社に作られている。

どっかの会社はパソコンを作って売らなければ生き残れないので、パソコンを作り続ける。

それも、ただ売るだけでなく、「よりたくさん」作って「よりたくさん」売らなければ生き残れない。

そこで、「パソコンを使わなければ生き残れない」状況を作り出す。

かくして僕らは「パソコンを使わなければならない」、「使われ」ている状況になった。

そうやってこの資本主義のシステムに命令されている。

僕は「何かの陰謀に巻き込まれてる!」って常々思うようにしてます(笑)

まあ、そんなことは僕が言うまでもなく誰かがいってんだけど、不勉強なので名前はあげませんw

で、そんな状況で「自主性」ってどうやって確保すんの?ってことになる。

「そんなこといったら何でも自主性なんてなくなるやん」

「別に完璧な自主性なんて求めなくてもいいやん」

って言われればそうなんだけど。

それでもどっかで線引きしないと個人の責任なんてなくなってしまう。

流されて生きるってのは、生きてるんじゃない。生かされている。

生きるというのは人間の根源的な欲求だと思う。

根源的な欲求を満たせないなら、生きる意味なんて・・・

自主性がないなら自分なんていてもいなくても同じ・・・

他に変わりはいくらでもいるし・・・

ってなっちゃう。

じゃあ、「個人の尊厳」なんてどこにあるの?

僕はそれを探すことになりました。

    で。

「生きる」ってことに直結する自主性が「食べる」って行為やと思ったんよね。

大きくまとめると生理的欲求とか、一次的欲求ってやつ。

食べるってことをしないと僕らは死んでしまう。

寝ないと人間はうまいこと活動できない。・・・等々。

これは誰に言われたんでもなく、資本主義のシステムが要請したんでもなく、まさしく自分発信の欲求。

しいていうならそのような欲求は「自然」から命令されている。

「神」っていう場合もあるのかな。

そういう意味では僕らは「自然」や「神」から生かされてるんだけど。

その「生かされる」ことへの意志なら「自主性」と位置づけられるんじゃないかと。

それを否定されたら本当に自主性なんてなくなってしまう。

「食べること」は「生きること」。

「生きてる」ってことが一番わかりやすいのはここだと思った。



で、


食べるためには必要なことがあるよね。

それが「料理」。

一人暮らしでわかったことは、料理は面倒だということ。

そんな面倒なことでもやるのは、それをしないと生きられないから。

!! 面倒でも生きたいんじゃん!!みたいなw

料理して飯を食うことは僕にとって「生への意思」の確認だったんですね。

「食べる」こと「料理する」ことは誰に命令されたんでもない。

「自分が」「必要だから」やってるんです。


それを全部外食にしちゃったら・・・また何かの陰謀に巻き込まれていく・・・。。

だから叶姉妹をみて「なんかかわいそう」って思っちゃったわけ。

まあ、彼女らの真意なんて僕には知る由もないですが。

少なくとも僕からしたら、「生きてる」って実感しやすいことを放棄しちゃうなんて・・・、って思ったわけです。

あ、別に毎日外食してる人を非難してるわけじゃないです。

たぶんそーゆう人はちゃんとほかの事にも「生きがい」を見出すことができてるんだと思う。

「自分の意思」をしっかり見つめることが出来るんだと思う。

生理的欲求に直接結びつかないことでも「自分の意思でやってる」「生きてる」って思えるんだと思う。

僕はそんな簡単なことがわからなくなるので、こんなふうに言葉に下ろさんといけんみたい。

長くなりました。

長い割りに言葉足らずな感じやけどw

あぁ、内容が青年期って感じ(笑)


・・・・・・年賀状やんなきゃ・・・。

毎度のことですが、僕の年賀状は一足遅れて届きますのでその辺よろしく(^^;)