旅してトボトボ

思いついたらなんか書く

テレビのリモコンがないのでその辺の棒で。

リモコンがもともとないので棒で操作。
すると、チャンネル変更、オン、オフが一気に簡単に!!

特許でも出願するか。





・・・さて。


卒業が近づいてきました。


・・・卒業できるのか?? 教免とれてるのか??

いろいろ不安・・・



教え子君は県立大を受けることになりました。

ついでということで、小論文の指導もしています。

指導をしている途中、気づいてしまいました。


オレばっかりしゃべりよる。

あらためて教育というものの難しさを感じます。


この間、卒論発表会がありました。なんとか卒論も無事全て終了。


卒論を書いてるとき、僕は孤独でした。

自分の哲学は自分で見つけるしかない。

ゼミの先生はなかなかセッカチで学生の話をあまり聞いてくれない。

さらに先生は、卒論指導ではほとんど内容についてはしゃべらない。

先生なりの、その人の「卒論」を書けるようにという配慮らしい。

あんまり言うと先生の卒論になっちゃうから。

でもそのおかげで、僕は他の人とも、先生ともほとんど共有しないまま、不安だらけのまま卒論を提出することになった。

自分の考えを言葉に下ろすのってすごく大変なんだよ。

内容についても、人と話すことで気づくこともあるだろうし・・・。

・・・ただ指導してないだけじゃん。

と思ってしまう。

もちろん大学教授がやたら忙しいってのもあるみたいだけど。

とにかく、僕は孤独でした。特に、何かを発見したとき。 

ものすごく誰かにこれを知らせたい!僕の大発見を知ってもらいたい!

と思うのだけどその時、時間をかけて話せる人は誰もいなかった。

のちに他の人に説明しても、あんまりわかってもらえなかった。

やっぱり思想の共有自体が難しいんだよね。

哲学やってる学者さんたちの孤独さってのは相当なもんだろうと思う。

もちろん、分かりやすい言葉に下ろすってのは大事なんだろうけど、それで解決できるものとはちょっと違う話。

だいたい、自分なりの思想を語るときに、人が作った言葉を使うと少しニュアンスがずれてくる。

だから、「自分なり」を探してそれを言葉に下ろそうする人ほど、孤独をより強く感じてしまう。

逆に、なんだか借りてきたような言葉を使う人は世の中にたくさんいる。

小論文受験の解説書なんて、この言葉(文章、考え方)を使いなさい!ってのを押しだしまくっている。

確かに、一つ一つの問題を深めるために、他人の思想にふれるのは大事なことなんだけどさ。

で、同じような愚行を僕も犯していたわけですonz

僕の考えをひたすらしゃべっちゃってたわけです。

正確には、教え子君の発する少ない言葉と、書いた文章から彼の思想を僕が再編集してあげてた。

「つまりこういうことが言いたいのかな?」って。

それは僕が彼の考えを解釈しようとした、僕の思想でしかない。

彼の思想は彼が語るしかない。

それで、

いざ、「どう思う?」って聞いてみても、途中で止まりちゃんと結論まで着地できないようだった。

自分の考えをまとめて言葉に下ろすということは実はすごく難しいのだ。

自分の考えを言っているようでも、どこかで聞いたことを繰り返しているだけのことはよくある。

高校生は素直だ。

信じている人が言ったことにはすぐに影響される。それはいいことでもあり、危険なことでもあり・・・



とにかく、これからはもっともっと彼の話を聞こうと思う。

結論に着地できるまで待ってみようと思う。もうあんまり時間ないけど。

高校生に今「自分で考える」時間があまりないのは由々しきことだと思う。

「自分で考える」ことが何か良い結果を生むかどうかは分からないけど、それは万人に認めらべき人権のようなものだと思う。

さらに今は、いわゆる「物語」なき時代。

だから、これからは自分で価値を見つけなければいけない。

ますます「考えなければ生き残れない」シビアな時代になってきているのだ。



教育というものの責任の重さを感じているところです。