旅してトボトボ

monpeiが過ぎ去っていく日々をなんとかとどめるための録

犬との一致をめざしている

NHKワンセグ2の番組「美輪乃湯」

見てしまった・・・

美輪さんが銭湯の番台をしていて、そこに来た女性に説教するという内容w

そのなかで、

「恋は自分本位」「愛は他人本位」

ということを言っていた

まぁ、よく言われるようなことだとは思うのだけど。

愛があればちょっとしたことじゃ動じなくなるらしい。

へぇ〜

ってことは

恋は

「私はあなたのことが好き。あなたにはそばにいてほしい。あなたにも私を好きでいてほしい」

愛は

「私はあなたのことが好き。あなたのそばにいてあげる。あなたが私を好きでなくてもいい」



…恋はうざいね。愛はきもいね。


まぁ、美輪さんだしもっと深く考えてるんだろうけど。


「愛」は基本的には受け身にも関わらず積極的なイメージがある。

上記の例でいくと、普通「あなたのそばにいてあげる」という言葉ははただのおせっかいだが、相手の要望「そばにいてほしい」に対する答えとしてのみ「愛」として成り立つ。

愛は「相手が望むことを積極的にする」ことなのだ。それは自分を捨てることではなくて、相手との一致を意味する。

一方相手が嫌がっているのにそばにいるのはただの嫌がらせかおせっかいでしかない。自分本位なことになってしまうからだ。

その行為をしたいのは自分だけなのだから。

「したくないけど相手のためにしました」という言い訳は成り立たない。
「したくないのに相手のためにした」のは、結局「自分が相手のためにしたい」だけである。結局自分本位なのだ。


ところで、「相手が嫌」というのを判断するのも結構難しい。何をもって「嫌」なのか。深層では本当に嫌なのか。

「愛」は紙一重で迷惑な別の何かになってしまう。


だいたい「相手との究極的な一致」なんてありえない。(と思う)

だから、「愛する」というのは正確には「愛を目指す」ということである。

私たちは「愛する」という言葉を使うときには本当に愛しているかどうかはわからない。ただ、「愛を目指している」だけである。

そして、「愛を目指す」ということのみは、相手が嫌がってもやってもよい。

なぜなら、目指しているだけで、実際にはできてない(と思われる)のだからw

「愛を目指す」のはよいが「愛を目指して相手の嫌がることをする」のはよくない。

愛を目指す以上、嫌がることをしたのでは矛盾してしまう。相手と一致しなくなってしまうからだ。


さて。

小倉でもそれほど人間関係の多くない僕の、日々の相手は犬。

犬のしたいことと僕のしたいことが一致すれば幸せなのだけど、今のとこ絶対一致しそうにありません。
僕が勝手にお互いのやりたいことを一致させようと努力してるのだけど、相手は当然自分のやりたいことしか主張しません。

そんなわけで機嫌良く一緒に遊んだり、いらついて散歩を早く終わらせたり、衝突の日々です。

どうやら僕は「愛」とはまだまだ程遠いようだ。

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