旅してトボトボ

monpeiが過ぎ去っていく日々をなんとかとどめるための録

注:おもしろくないです。

 考え事をしていたら、長メモになってしまいました。文章にはあまりなってません(^_^;)

忘れないため?と戒めwのために記しておきます。


なぜ人間には神が必要なのだろうか。
神は人間が創り出したものだ。僕には超越的な神を信じることのできない貧困な精神しかない。
しかし、なぜ人間は神をつくりだしたのか。神とは「理由」である。「この世の理」である。人間は理由を知りたがる動物だ。なぜ、日は毎日昇るのか。なぜ、海は青いのか。なぜ、津波は起こるのか。そうやって、理由を探求してきた。それは神を探求することでもある。(ここで「探求」という言葉を使うのはあまりよくないかもしれない。むしろ一致?)探求を論理でやろうとしてきたのが、西洋で発生した「科学」。直観的に感じ取ろうとしてきたのが宗教。
 今は市場原理主義。しかし、世界が市場原理に支配されると、私たち人間は必ず滅びる。なぜなら、「自然」は調和をとるものだから。自然は必ず、偏った力にはそれと反対の力を与える。私たちが自然に与える力が大きければ大きいほど、自然からの反対の力は大きい。しかし、この「力」は必ずしも人間に害なすものではない。例えば自然に何かを供すると自然科からは恩恵を受けることができる。問題は市場原理は自然を無視することがよくあるということ。そして歯止めがきかないということ。
 市場原理主義からの脱げ出すためにの方策が二つ。
1、科学
2、宗教
どちらも「理」を探求するもの。科学は自然との折り合いをつける一番よい方法を探求している。宗教は現時点での自然との調和をはかるために、人間を「抑える」力がある。
しかし、どちらも使い方を誤れば悲劇を生む、諸刃の剣でもある。科学によって文明が暴走している部分もあるし、宗教戦争という言葉もある。
 日本人に必要なのは今、宗教かもしれない。科学で、物事を見ようとした時、日本人は行き詰ってしまった。それは、教育の失敗なのか、高度な専門化によるのか、豊かさによる奢りなのか…。私たちは、まず物事に関心を持たなければならない。外に目を向けなければならない。そして、それが自分と深く結びつくことに気づかなければならない。そのための、第一歩として「神」というツールが使えないだろうか。
 「神」は「美」と深い関係にある。「美」とは調和のことである。自然と人間を仲立ちするもの。それは「美」の観念・イデアである。そして、美を発現したものの一つが「神」なのではないだろうか。そしてこの「神」という観念は一般に広がりやすい。神は美しくなければならないし、探求されなければならない。そして身近で、かつ荘厳でなければならない。さらに尊敬されなければならない。
 神を美と考えると、殺伐としたビル都会に自然を神を配置し、美を整えようとするのはとても合理的に思える。
 例えば、真っ白な紙に鉛筆で直線を5本ひいたとき、それを美しいと思うだろうか。否。しかし、画家が個展をひらいて、そこにこの5本の線を引いた紙を額縁入れて飾ったらどうだろうか。もしかしたら、それを美しいと思う人がいるかもしれない。逆の混沌としたようなものでも同じである。直線の場合は、まっすぐで機械的な線と、個展で出すぐらいだから何かあるかもしれないという「?」とが調和している。混沌としたものの場合、混沌としたものを「額縁」という枠に収めることで調和している。そして、このような「こう考えたら調和するんじゃないか」という感覚は「画家の個展」という特殊な空間からうまれる。神を配置するというのも同じ理屈である。人々が調和を目指し、そうしないと「何かあるんじゃないか」(天罰など)と考えることが重要なのである。だから、「神」とは「美」であり、それは調和なのである。

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