高知大の卒業式について。
今朝、卒業生へのメッセージを書いていて、ふと卒業式の日を調べた。
すると、今年から卒業式、入学式の場所が県民文化ホールへ移るというお知らせがあった。それに伴い、近隣住民を配慮して、在来生・サークルによる踊り・演奏・飲食・紙吹雪・場所取り・資料配布・勧誘等の行為は禁止するという。
前から知っていたことで、前から不満に思っていたのだけど、卒業生へのメッセージを書いた今、再び怒りがこみ上げてきた。
聞くところによると、予算削減のためらしい。ホールでやったほうが、大学の体育館でやるよりお金がかからないとのこと。体育館でやると、職員が準備するため、その分の給料が高くつくらしいのだ。
それにしても、である。
僕だって別に卒業式や入学式のたぐいは好きではない。どっちかっていうと嫌いだ。
偉い人の話はつまらないと相場は決まっているし、普段着ないような服を着せられ、2時間ぐらい固まっていなければならない。なんてつまらないんだろう。
それでも僕が式に出席していた(もちろんほとんどの「式」に僕の出欠の自由はなかったが)のは、それ以外のことが僕にとってとても重要だったからだ。
級友と学校生活を振り返るとか、後輩・先輩と別れを惜しむとか。大学で言えば、サークル仲間で騒ぐとか。それから、自分の通ったしみじみと校舎を眺めるとか。(人間という生き物は、人生の節目に自分のやってきたことと、それをしてきた場所を一緒にまとめて振り返りたくなる性質があるらしい。)
そんなとっても当たり前な、おもしろくないくらいよくある卒業式の風景である。
実はそれらよくある「式の思い出」は式の内容にあるのではなくて、その副産物でしかない。
その副産物を、あたり前の風景を、今回の式では根こそぎなくしてしまうという。
この、式典の場所を県民文化ホールへ移すというのは、例えば、
小、中、高校の卒業式を市民体育館でやる。
とか
成人式を違う県でやる。
とか言ってるようなものだ。
ただでさえ面白くないものが、「面白くないだけ」のものになってしまう。
県民文化ホールで卒業式をやるということは、ほとんど自分が4年間通った場所と関係ない場所で、ほとんど話したこともない人の話を聞いて、サークルの後輩などとは会うこともなく、帰るということだ。
いったい、何人の卒業生が県民文化ホールに感慨を抱くというのだろうか。
・・・何の意味があるのだろう。僕なら行かない。そんな所には行きたくない。
前から思っていたのだけど、もういっそのこと「卒業式は各自でしてください。」とかでいいのではないだろうか。各自、自分のゼミや、サークルなど知った仲で、仲間内だけでパーティーでもひらけばいいじゃない。そっちのほうがずっと安上がりだ。
それぐらいに思っている僕でさえも、「せめて卒業式は学内でやってくれ」と言わなければならないぐらい、異常な事態だ。こんなことは、むしろ保守派なOBや、それこそ校長や学長なんかが言わなければいけないと思うのだけれど。
それにしても、僕の在学中から、事務や教授のお偉いさん方は学生の意見を全く聞く気が無かったが、、相変わらずだ。むしろエスカレートしている。
学生・事務・教授の「三者自治」なんてもう、遠い昔の歴史上での決まりごとみたいだ。
どうしてこうなっちゃったんだろう。やっぱり法人化のせいだろうか。
社会が効率化していく中で、せめて大学だけはそれとは無関係でいなければいけない場所のはずなのだけれど。
効率を求めるならば大学なんてなくたっていい。専門学校でいい。
大学というところは、実は「役に立たないものもある」という一点においてのみ他の機関よりも「役に立つ」ところなのだ。
それは「役に立たないもの」が「他では得られないような役に立つもの」をいずれ生み出す可能性を秘めているからだ。
今の科学の成果なんてほとんどそうだ。もともと何の役にもたたないものの積み重ねが、いつか「ぽんっ」と役に立つものを生み出してしまった。そして、それらは「それ以外の方法」では生み出されえなかった。全く社会になんの役にもたたない、たった一つの発見がければ、今ある役に立つ機械や法則はなかったかもしれないのだ。
大学というのは唯一、役に立たないことを堂々とできるところだったと思うのだけれど。
・・・まぁ、それはともかく。。
何にしても今回の変更は僕はおかしいと思う。
でも、もう今の学生には声をあげてこれを阻止しようとする力は残っていないようだ。
もしかしたら、おかしいと思う人すらもう少ないのかもしれない。
書いていると怒りよりも悲しみがわいてきた。みんなはどう思っているのだろう。
イケンモトム。