旅してトボトボ

思いついたらなんか書く

ホモコムニカンス

祖母の家で先行研究をまとめている。なぜ、人はそうするのか。今村仁司の「交易する人間」を読み返すと、以前は気づかなかった重要な部分が次々と出てくる。今後の贈与論に示唆的なことばかりだ。というか、所有や存在の観念と贈与とのつながりなど、僕が言いたかったことばかりで悔しい。すでにこんなに述べられていたとは。

3年前に読んだときとは、格段に違うレベルでこの本の意義がみえるようになった。

Fに始まった日

ドキュメンタリー映画を楽しもう」「将軍様、あなたのために映画を撮ります」「FAKE」

とりあえず、備忘録までに。

ドキュメンタリーについての公開講座を聴講したあと、小倉昭和館で立て続けに二本のドキュメンタリー映画を観た。これがどれもなかなかに面白かった。虚構と現実がわからなくなるような映像の世界。そもそも、その区別事態を再考させられる。内容については気が向いたらもう少し書いておきたい。

中動態の世界

毎日のことにかまけすぎて、自分の考えを吐き出したり、客観視したりする機会が減っている。だから、このブログの使い方を少し変えようと思う。もっと、思うままに、できるだけ毎日、なんでも書いていこう。

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表題の「中動態の世界」(國分功一郎著)は最近読んでいる本のタイトルである。どうしても、哲学の本の方がその他の本よりも気になって先に読んでしまう。

そうそう、意志と選択は違うのだ。そして純粋な意志などというものは、人間の妄想にすぎない。純粋な贈与と同じように。だけど、私たちはそういう「極」を想定せずにはいられない。

雪の中で想う。

雪が僕の街を覆った。ただ、その景色をニューギニアやソロモンやサラワクの彼らにみせたくてFBに書き込みをした。彼らは一度も雪をみないまま一生を終えることも多い。

f:id:monpei:20160124171223j:plain僕のお世話になった、小さな島のおじいさんの体調が優れないという連絡が続けざまにはいっている。雪が、僕とおじいさんのいる場所の遠さをいっそう強く感じさせる。f:id:monpei:20160124172039j:plain「祈る事しかできない」悲しみとも悔しさとも、もどかしさともいえない感情が心の中で黒く、重く、雪とともに僕の足をとる。

白い世界のなかで、青い世界のことをただただ想った。

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どうやったら「心(内面)」が成長するのか?

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 次の日は、東南アジア学会に参加した。この前の公共空間の研究会では先輩ポスドクがシナリオに取り込まれたり取り込んだりといった闘いについて発表していたけど、今回の他大学の人たちの発表で、シナリオ側の取り込む力のほうがよっぽど強いことを再確認した。

 シナリオ〜というのは、社会に多く存在する定形のストーリーのことである。学生を例にとるなら、「地域の中でボランティア活動をして内向きな自分の性格を変える」とかそういうものである。ボランティアも、アルバイトも、留学も、サークル活動も、どれもすでにサクセスストーリーがあり、シナリオ化している。そして、そういう定型的な人として僕たちは扱われがちである。
 市場のなかで学生がお店を出せば「地域貢献のためにやっている」と言われる。学生側もテキパキ市場のためにボランティアかアルバイトのように働いてしまう。それでは市場の店主たちと対等な付き合いはできない。僕たちは市場の一店主として店を経営している。そうでなければ市場で深い意味でのフィールドワークはできないだろう。アルバイトでやっているわけでも、ボランティアでやっているわけでもない。ただ、面白いことが好きでやっているだけなのだ(本当はお金儲けのためにやっているのだ)。
 ところが、こういう学生のかってで自主的な活動(だからこそ自由でクリエイティブだった)を、単位にする、というのがここでのシナリオ側の圧力である。企業が主体的で創造性のある(しかも素直で反骨心のない)学生でなければ、つかえないから、そういう働き手を育てろ、と文科省に働きかけたのがきっかけで始まった教育改革。2000年代以降、態度や主体性や創造性を評価の対象とせよという通達のもと、それらを育てる教育が現場に求められたのだ。困ったのは、これまで知識偏重型の教育をおこなってきた教育現場である。どうやって主体的で創造的な学生が育つのか。苦し紛れに出したのが、地域貢献や、ボランティア、留学、そしてフィールドワークである。 しかも、それを「教育する」といって結局は手取り足取りのカリキュラムを用意するのである。例えば、「フィールドワーク」のためにバスのチャーターから保険の準備まで先生がする。そして引率して見学して帰るのである。どうやって主体性や創造性が育つのか。

 それはともかく。そういうわけで、もともとは勝ってに市場の中で好きな事ができる、ということで始めた店が、途中から「地域貢献のため」とか「ボランティア」とか言われるようになってしまった。そして、学生もそういう振る舞いをしてしまう。
 ところがところが、僕たちは実はそういうストーリーを使って、好き勝手にやりたいことをしている、とも言える。僕らがやっているお店はもはや北九州市の全ての観光雑誌に載っているほど有名で、観光客が山ほど来る。観光というストーリーを求めてくる客を、悪い言い方をすれば「騙し」、古い市場を残して自分たちの楽しい事や儲けることをしようとしているのだ。でも実はそれは市場の活性化にもつながっていて、ある意味で「地域貢献」にもなっている。

 僕が学部一年生のとき、「自律協同入門 自律創造学修」みたいな授業が開講された。高知大学には、学生の学修可能時間を考えると、半年に22単位までしか履修できないというおせっかいな制度があるが(キャップ制という)、この自律~についてはこのキャップが外れて、上限を超えて履修することができる。さっさと単位をとってしまいたいと考えていた僕は、一年時にこの授業をとった。文科省からお金がどっさりついていたのだろう、外部講師がばんばんきて(企業の偉い人やら、どっかのNPOの人やら)講義していた。そしてそれを受けて自分たちも何か「アクション」をおこし、最後にプレゼンをする、という授業内容だった。授業が終わってからも、関連するプロジェクトに参加し続ける人もいた。教授や学生は社会経済学科の人が多かったように思う。そこに関わる人にはやる気のある人も結構いて、そうした人たちとは授業の後もちょいちょいつながりがあった。けれどこうした人たちは大学側のシナリオの押しつけや、管理するという圧力には無意識、無関心だった。圧力は自治会にも寮にもサークルにもかかってきていて「自律系」のプロジェクト(北九大でいうなら421ラボ)にはそういった圧力に対して何か言ったり行動したりできそうな人たちがいたのだけど、彼らは自分のプロジェクトで忙しそうだった。ボランティアやNPOで活動する彼らだったが、政治的な事柄にも口を閉ざしていた。彼らが解決しようとしている問題を生み出しているのが政治なのに。
「自律系」の授業や活動にはとにかく「自分を変える」とか「~な自分に成長する」とかそういったスローガンが多くて、本当はそこにある政治性がすっかり消されていることに違和感をもった僕は、結局その活動に深入りしないまま卒業した。その代わり、この違和感はなんだろうというのが僕の卒論のテーマになった。「心の成長とは何か」というタイトルのこの論文では、経団連のよびかけで教育基本法が改正され、心までも評価の対象になってしまったことを指摘した。読みかえすといろいろつっこみどころがあって恥ずかしいけど、僕があのとき気になった違和感は今も全然解決されていない、どころかどんどん強化されているのだなと、改めて思う。
 けれど一方で、自身がフィールドに出てこなかったことへの後ろめたさはあり(だから自分の半径50m内でおこっていることでしか論文がかけなかった)、地域活性化とか、ボランティアとか、発展途上国の支援とか、そういうものに対して斜め目線でみる自分と、とはいっても外に出て行動しなきゃわからないものがある、という葛藤が自分のなかにあった。

 長くなったけど元に戻すと、公共空間の研究会ではその時の僕の葛藤が、シナリオに従う事への反抗から、シナリオを利用するというしたたかさへ向かうその中に位置づけられることがよくわかった。一方で東南アジア学会では、あの「自律~」の授業にでていた学生達がどういったふうに語られているのか、その定形がよくわかった。僕が地方大学に入学したときにはすでに授業になっているのだから、その報告の仕方もだいぶ形式化されているのかもしれない。大学生に求められている(もはや大学生が求めている?)シナリオは、やっぱり内面の成長とかそういうのなのだ。そこでの成長はやっぱりシナリオ通りでしかない。

もし、僕が大学や高校で働きだしたら、こういうことの片棒を担ぐ事になるのだろうか。それだけは避けたい。それ以外の場所で働きだしたとしても、シナリオに取り込もうとする圧力はいつもあるのだろう。その圧力を利用できるほど人はいつも強かでいられるだろうか。闘いの日々である。

 それにしても、最近は圧力よりも日常と闘っているので、このポヤンとした頭をなんとかしなければ。

 

 写真は学会の後に飲みにいった商店街。夜だったけどなんだか面白そうな商店街だ。飲んだあと、ここの近くに住む方の家で一宿しました。感謝。

温泉に驚愕するニューギニア人

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東京へ行きました。
カポイラに会いに。東南アジア学会に。

一番最初にカポイラ会ったのはパプアニューギニアの州都アロタウに降り立ったその日。頼る人がおらずコミュニケーションもままならない僕は、とりあえずJICAの人(青年海外協力隊)がアロタウに滞在しているというので会いにいった。そしてJICAの青年が「何考えてんのかわかんないんだよなああいつ。」といいながら紹介してくれたのがカポイラだった。彼はその後、ミシマという島に住んでいる高校の先生を僕に紹介してくれた。そして先生がニモアという島に住む神父を・・・というふうに、最終的にお世話になったショーティ(というあだ名のおじいさんの家に長期滞在した)のところまで、僕の最初のニューギニアでのフィールドワークはつながっていく。

その後、JICAの青年は音信不通になって交流が途絶えてしまったけど、カポイラとはずっと付き合いがある。
彼は、僕がセーリングカヌーやトボトボ(石斧型の財貨)の話ばかりしていると、「他の国から来る人は私たちに何かを教えにくるけれど、お前は学びにきたのか」とおもしろがってくれた。
いろいろ世話もやいてくれて、事務所を使わせてくれたり、空港まで送ってくれたりする。彼は多動な感じの人で、次々と各地に行っては稲作の指導やら新しいプランテーションやらをしまくっている。JICAの研修への参加(海外の役人などが日本にきて研修生として学ぶ制度がある)も、年齢が少しオーバーしていながらも無理やり合格したらしい。いろいろやる感じがJICAの青年に「わかんないやつ」と表現させたのかもしれない。
そんな彼が東京に来た。二回目の訪問。去年は、文化人類学会のあと、大急ぎで筑波まで行き、彼を連れ出しビールを一杯のんだだけだった。今年こそはもっと遊ぼうと、小倉へ招待したかったのだけど、都合により叶わず、東京で温泉に入る事にした。

温泉はたいそう気に入ったみたいで、このお湯はどこからくるのかとか、だから日本人は長生きなのかとかとか、いちいち感動していた。あと、でも一時間以上も入ってほとんど寝てるようなおじいちゃんたちがいるのを知って驚愕していた。なんなんだ日本人。ニューギニアにも火山があるので、カポイラはむこうでやるつもりかも。もはやテルマエロマエみたいな状態である。

そのまま祖母の家に行き、こたつに入りビールを飲んで遅くまで語り合って(写真)寝た。そして次の日、帰国のための集合時間ぎりぎりに彼は宿舎に帰っていった。
彼は僕の祖母をえらく気に入ってくれた。祖母も、いきなりのニューギニア人の訪問だったけど全く動じない。祖母の戦前の村の話に花がさき、お互いに自分の祖母に育てられた話をしていた。祖母が、「父や母はいつも畑仕事で忙しく、家の家事をしていたのは自分の祖父母で、子どもはいつも祖父母と一緒に家にいた」というと、カポイラもうちの村でもいつも爺婆が孫の面倒をみていると、同意するのだった。二人とも言葉は通じないのだけど、そんなこと御構い無しにしゃべる。しかも、僕が通訳するよりも早くお互い答えることがある。やっぱりコミュニケーションには言語以外の要素がたくさんあるのだ。そんなことを考えながら僕は必死に彼らの会話を通訳をした(追いつかなかったけど)。