旅してトボトボ

思いついたらなんか書く

大根が腐ってると思った時にはすでに腐ってたんだよ!

腐ってた部分を取り除いて食べました。






先日の日記で、「自分で考えて言葉におろすって結構難しい」って話をしました。

それで、数人の方から(ブログ以外でも)レスポンスをいただきました。。

みなさん「考える」ことについては一家言あるんだなぁと思いました。


で、  実は僕が最終的に言いたいことは


難しいけどみんな頑張って考えなきゃ!!

ってことじゃないんですね。

もちろん、考えることは人間には必要なんだけども。

前のべたように、教育が、そうさせるように動くべきだとも思うんだけど。

それって結構当たり前の話。

考えるほうがいいか、考えない方がいいかというと、考えた方がいいに決まっている。




・・・・・・


本当に?

前回は、「考えるのって結構難しい」って話でしたが、その中で

   自分で考えることが何か良い結果を生むかどうかは分からない

ということをチラッと言いました。

ためしに直球で、「考えること」を考えてみましょう(笑)

            あ、こっから先は、僕が自分のためにメモするみたいなとこがあるんで、非常にわかりにくいかも(^^;)

もっとわかりやすい言葉を磨いていきたいな・・・
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考えるということは

なぜ?
なにを?
なにが?
どうやって?

と問いをたてることです。

なぜ考えるのか
何を考えるのか
何(誰)が考えるのか
どうやって考えるのか。

ってね。

そしてその答えを探す。
どうやって探すかというと、経験や、論理から探すわけです。

こんなふうにして考えていくわけですが、

そもそも何を使って考えているのかというと、問いをたてている時点で

言葉

を使っているわけです。

言葉を使うと必ず間違えます。

なぜなら、言葉とは具体的な事柄の「抽象」でしかないから。

しかも、人の認識を通している。

だから、言葉は人によって違うし、全く同じ意味で使われることもない。。

例えば

まさに今この場に、僕が中学校のときに買った、ひびが少し入っている軟式のボールがあります。

このように具体的なものを言葉に直すと必ずそれ自身ではなく、そのボールの性質や特質を表わすことになります。

つまり、「軟式のボール」という言葉では今ここにある具体的なボールの全てを表わすことができないんです。

しかも、そもそも「軟式のボール」と聞いて、軟式野球のボールを想像するのか、軟式テニスのボールを想像するかは人によって違う。

考えるということは、そのようなあやふやな言葉の連続でしかない。

だから、考えても間違えることはあるし、伝わらないこともある。

ほとんど、誰かが作り出した言葉を使うことにもなるので、そもそも本当に自分がそう考えているかもわからないんです。

結論

考えてもわかりません!!www

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って考えると、そこで思考停止〜

でも、この今までの「考えること」についての考えも間違ってるかもしれないわけです。

ね、わけわかんなくなってきた(笑)

難しい上に、それで何か良い結果を生むとは限らないんです。

むしろ、うだうだ考えてる分だけ悪い結果が起きるかも。

だから、

漫画、「ジョジョの奇妙な冒険」第五部にでてくるプロシュートの言葉、汚い言葉で恐縮ですが、



オレたちチームはな! そこら辺のナンパ道路や、仲よしクラブで、
「ブッ殺す」「ブッ殺す」って、大口叩いて仲間と心をなぐさめあってるような
負け犬どもとはわけが違うんだからな。

「ブッ殺す」と心の中で思ったならッ!
その時スデに行動は終わっているんだッ!


というのはある意味、真なのです。
言葉なんて実は後付けでしかない。

言葉になったとき、すでにやるべきことは分かっているんです。

じゃあ、考える意味はないのかというと、そうでもない。

そもそも、後付けでいいんです。言葉なんて。

科学も後付けのたまものです。

今あるもともとある世界に、後から勝手に人間が言葉を当てはめて考えてみただけ。

この後付けによって人間は発展してきた。

実は、後付けできるから、「経験」にもなる。そして、後付けから新しいものを生み出してきた。

だって後付けから過去をそのまま再現できるわけではないのだから、必ず新しいものになるわけです。

後付け(経験)は新しいものを生み出すときに「自信」として作用する。

これをやっても大丈夫だろう。これぐらいはやってもいいだろう。ってね。

ま、考えすぎると世の中の「不確実さ」に気がついて動きにくくなるけどw



Q:じゃあ、どこまで考えればいいんだ!?

A:時間と気力の続く限り。無理のない程度に。

これが僕の答えかな?

考えても考えても「真実」なんて見えてこない。

そもそも考えることで真実がつかめるなんてことない。

ソクラテスは、アテネのなかでただ一人、「自分は自分自身が知らないということを知っている」ということに気づきました。

それだけ自分自身が知らないということがわかるのは難しい。

僕自身への戒めも含めて、言いますが、
「わからないということをわかってほしい。」

行動は真実をつかむ前にやってもいい。ってかやるしかないし、やらないとわからないこともある。


だけど、考えなくていいわけじゃない。

考えないと言葉にできないから人にも全くつたわらないし(言葉にしても全ては伝わらないけど)、動く自信もでてこない。

それにやっぱり人類は考えることで発展してきた。

あ、でも役に立つから考えるんじゃないよ。だって役に立つかはわかんないし。


「役に立つから」じゃなくて、考えるから考えるんです。

パスカルさんが言うように人間は「考える葦」なわけで、人間の尊厳は考えることにある。

考えようと思ったときにはすでに考えている。

だから、考えることを止めさせるようなことはしないで欲しい。

ただし!!

考えることは「考えろ!」と強制されたからといってできるものでもない。

言われたまま、考えるということの本質をつかまないまま、考えようとしてもはっきり言ってしんどいだけですわ。




あ〜・・・、そういえば、僕は言葉と行動がなかなか一致してこなかったんですよね〜

このへんと関係してんのかなぁ〜


以上、日記っていうか超つぶやきでした。。