旅してトボトボ

思いついたらなんか書く

ハイパーベンチレーション!!!って名前かっこよくない?

過呼吸のことだそうです。

人為的に起こして、苦しくなく長時間潜ることができるそう。でも危険w

どうやら僕は今年、海にダイビングしに行くことになりそうです。

今日の学び。

離岸流にのったときは、横に泳ぐ

沿岸流ののったときは岸にむかう

潮が引くときに海に出てはいけない

パニックになるな!

触っちゃだめな生き物たちがいるよ

バディは助けを呼ぶため。目を離してはいけない。

本は読みたいけど睡眠もとりたい。

真実は矛盾している。
そしてその矛盾こそが世界を動かしていく。

最近、宗教学者山折哲雄がよくテレビにでてくる。

恥ずかしながら、最近知った人物なのだけど、どうやら僕が興味を持つテレビ番組にはよく登場する。

なので、最近よくでてくるというよりは、僕がよく見ているだけかもしれない。

まぁ、災害などが起こるとTVからお声がかかると本人は言っていたけどね。

んで、山折さんが必ず「三者火宅の物語」をし、それと宮沢賢治

「世界全体が幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」

という言葉を引っ張ってくるのだ。

そして福島原発の作業員がヒーロー扱いされることを批判する。

誰かが犠牲になって(ヒーローになって)他の人が救われるなんてことは「ありえない」というのである。

山折さんのほうは「あってはならない」というニュアンスに近いと思うけど。

もしこの賢治の言葉が真実だとしたら、真実は矛盾している。

どんなに悪いことや悲劇に目をつぶっても、全員救済というのはあまり現実的なように見えない。
個人個人の価値観が衝突し、利害がぶつかることもあるからだ。

「だから、この言葉自体が間違っている。」

と言ってしまったら、それは正義論が陥りやすい間違いを犯してしまっている。

真実は矛盾しているのだ。

誰かが犠牲に、ヒーローになって他のみんなが救われるのならもうとっくの昔にみんな救済されているかもしれない。

特攻隊員や、広島長崎の人や、沖縄の人、アジアの人・・・戦争でそれらの人を犠牲にして、僕たちは本当に幸福になったのだろうか。

お金のない地域に原発をおくことで僕たちは幸福になったのだろうか。

誰かを犠牲にして他が幸福になるという考えを僕たちはどうやら捨てなければいけないようだ。

現実はそんなに予定調和的ではない。

僕たちには、全員救済のために頭を悩ませなければいけない時がきている。

しかし、現実世界を切り取ってみてみると「あれか、これか」を迫られることが必ずある。

真実は矛盾している。

簡単なことじゃないみたいだ。

だけど、現実は固定的ではなく常に移り変わっていくという「無常」が一筋の光かもしれない。



これが、山折さんがしゃべってることの僕なりの解釈です。


あ〜…、それにしても眠たい……。

注:おもしろくないです。

 考え事をしていたら、長メモになってしまいました。文章にはあまりなってません(^_^;)

忘れないため?と戒めwのために記しておきます。


なぜ人間には神が必要なのだろうか。
神は人間が創り出したものだ。僕には超越的な神を信じることのできない貧困な精神しかない。
しかし、なぜ人間は神をつくりだしたのか。神とは「理由」である。「この世の理」である。人間は理由を知りたがる動物だ。なぜ、日は毎日昇るのか。なぜ、海は青いのか。なぜ、津波は起こるのか。そうやって、理由を探求してきた。それは神を探求することでもある。(ここで「探求」という言葉を使うのはあまりよくないかもしれない。むしろ一致?)探求を論理でやろうとしてきたのが、西洋で発生した「科学」。直観的に感じ取ろうとしてきたのが宗教。
 今は市場原理主義。しかし、世界が市場原理に支配されると、私たち人間は必ず滅びる。なぜなら、「自然」は調和をとるものだから。自然は必ず、偏った力にはそれと反対の力を与える。私たちが自然に与える力が大きければ大きいほど、自然からの反対の力は大きい。しかし、この「力」は必ずしも人間に害なすものではない。例えば自然に何かを供すると自然科からは恩恵を受けることができる。問題は市場原理は自然を無視することがよくあるということ。そして歯止めがきかないということ。
 市場原理主義からの脱げ出すためにの方策が二つ。
1、科学
2、宗教
どちらも「理」を探求するもの。科学は自然との折り合いをつける一番よい方法を探求している。宗教は現時点での自然との調和をはかるために、人間を「抑える」力がある。
しかし、どちらも使い方を誤れば悲劇を生む、諸刃の剣でもある。科学によって文明が暴走している部分もあるし、宗教戦争という言葉もある。
 日本人に必要なのは今、宗教かもしれない。科学で、物事を見ようとした時、日本人は行き詰ってしまった。それは、教育の失敗なのか、高度な専門化によるのか、豊かさによる奢りなのか…。私たちは、まず物事に関心を持たなければならない。外に目を向けなければならない。そして、それが自分と深く結びつくことに気づかなければならない。そのための、第一歩として「神」というツールが使えないだろうか。
 「神」は「美」と深い関係にある。「美」とは調和のことである。自然と人間を仲立ちするもの。それは「美」の観念・イデアである。そして、美を発現したものの一つが「神」なのではないだろうか。そしてこの「神」という観念は一般に広がりやすい。神は美しくなければならないし、探求されなければならない。そして身近で、かつ荘厳でなければならない。さらに尊敬されなければならない。
 神を美と考えると、殺伐としたビル都会に自然を神を配置し、美を整えようとするのはとても合理的に思える。
 例えば、真っ白な紙に鉛筆で直線を5本ひいたとき、それを美しいと思うだろうか。否。しかし、画家が個展をひらいて、そこにこの5本の線を引いた紙を額縁入れて飾ったらどうだろうか。もしかしたら、それを美しいと思う人がいるかもしれない。逆の混沌としたようなものでも同じである。直線の場合は、まっすぐで機械的な線と、個展で出すぐらいだから何かあるかもしれないという「?」とが調和している。混沌としたものの場合、混沌としたものを「額縁」という枠に収めることで調和している。そして、このような「こう考えたら調和するんじゃないか」という感覚は「画家の個展」という特殊な空間からうまれる。神を配置するというのも同じ理屈である。人々が調和を目指し、そうしないと「何かあるんじゃないか」(天罰など)と考えることが重要なのである。だから、「神」とは「美」であり、それは調和なのである。

これからのこととかなんかまだよくわからんけど

えっと、



最近、研究室を見て回っているのですが、一つの研究室にしょっちょう顔を出すようになりました。

んで、なんか時間ないです。

今日はなんか屋根裏部屋の改装をしてました。なんかよくわからんけど。

そんなわけでよくわからんけど時間がないです。

録画したテレビがみれません。

連絡とる時間があんまりありません。

僕とよく連絡をっとってる人たちには申し訳ないですが、そんなわけで連絡の頻度がおちたり、粗雑になるかもしれません。ごめんなさい。

根気よく連絡とってあげてください。

明日は朝6時10分出発です。なんかよくわからんけど。

あれよあれよと〜とはこれのことよと思いました。






……とりあえず寝ます。

高いとこが好きだけどバカではないと信じてる

北九大のキャンパスの一番上に行ってきた。

といっても、一つ下までしか入れないのだけれど。

最近は高いところはどこも立ち入り禁止になっていて興ざめする。

北九大のキャンパスは北九州で2番目に高いのだけど・・・窓もあんまりなくて・・・


景色をちゃんと見せる気がないなら高くするなぁ!!

どうせ教授たちの研究室からはちゃんと見えるんだろな。


写真は夕焼けのなかの飛行機雲とアジサイ

いい季節です。

犬との一致をめざしている

NHKワンセグ2の番組「美輪乃湯」

見てしまった・・・

美輪さんが銭湯の番台をしていて、そこに来た女性に説教するという内容w

そのなかで、

「恋は自分本位」「愛は他人本位」

ということを言っていた

まぁ、よく言われるようなことだとは思うのだけど。

愛があればちょっとしたことじゃ動じなくなるらしい。

へぇ〜

ってことは

恋は

「私はあなたのことが好き。あなたにはそばにいてほしい。あなたにも私を好きでいてほしい」

愛は

「私はあなたのことが好き。あなたのそばにいてあげる。あなたが私を好きでなくてもいい」



…恋はうざいね。愛はきもいね。


まぁ、美輪さんだしもっと深く考えてるんだろうけど。


「愛」は基本的には受け身にも関わらず積極的なイメージがある。

上記の例でいくと、普通「あなたのそばにいてあげる」という言葉ははただのおせっかいだが、相手の要望「そばにいてほしい」に対する答えとしてのみ「愛」として成り立つ。

愛は「相手が望むことを積極的にする」ことなのだ。それは自分を捨てることではなくて、相手との一致を意味する。

一方相手が嫌がっているのにそばにいるのはただの嫌がらせかおせっかいでしかない。自分本位なことになってしまうからだ。

その行為をしたいのは自分だけなのだから。

「したくないけど相手のためにしました」という言い訳は成り立たない。
「したくないのに相手のためにした」のは、結局「自分が相手のためにしたい」だけである。結局自分本位なのだ。


ところで、「相手が嫌」というのを判断するのも結構難しい。何をもって「嫌」なのか。深層では本当に嫌なのか。

「愛」は紙一重で迷惑な別の何かになってしまう。


だいたい「相手との究極的な一致」なんてありえない。(と思う)

だから、「愛する」というのは正確には「愛を目指す」ということである。

私たちは「愛する」という言葉を使うときには本当に愛しているかどうかはわからない。ただ、「愛を目指している」だけである。

そして、「愛を目指す」ということのみは、相手が嫌がってもやってもよい。

なぜなら、目指しているだけで、実際にはできてない(と思われる)のだからw

「愛を目指す」のはよいが「愛を目指して相手の嫌がることをする」のはよくない。

愛を目指す以上、嫌がることをしたのでは矛盾してしまう。相手と一致しなくなってしまうからだ。


さて。

小倉でもそれほど人間関係の多くない僕の、日々の相手は犬。

犬のしたいことと僕のしたいことが一致すれば幸せなのだけど、今のとこ絶対一致しそうにありません。
僕が勝手にお互いのやりたいことを一致させようと努力してるのだけど、相手は当然自分のやりたいことしか主張しません。

そんなわけで機嫌良く一緒に遊んだり、いらついて散歩を早く終わらせたり、衝突の日々です。

どうやら僕は「愛」とはまだまだ程遠いようだ。